波乱万丈の男 百合澤正志さん(島根県宍道町)【#連載74】

夢と希望をいっぱい抱え、18歳でブラジルに渡った青年、35年のアマゾンでの暮らし、そして、ふるさとに帰国して第2の人生。波乱万丈の男「百合澤正志さん」にお話を聞いた。

(取材・文章 tm-21.com)

波乱万丈の男 百合沢正志さん(島根県宍道町)【 

【今回の元気人】
百合澤正志(ゆりさわただし)さん
昭和24年1月24日生まれ
株式会社アミーゴ島根
代表取締役社長 
〒699-0406 島根県松江市宍道町佐々布2130-1
TEL 0852-66-7024
FAX 0852-66-7025
HP 奥出雲シモンおろち茶(アミーゴ島根)
http://www.amigo-shimane.co.jp/

 18歳の青年アマゾンへ

昭和42年2月、村には雪が降り積もっていた。病弱な母の心配を背に、胸には大きな夢と希望を抱え、青年は神戸へ向かって行った。
「アルゼンチン丸」船は同じ夢を持った人たち300人あまりを乗せて、ブラジル、アマゾン下流の大都市、ベレンへと旅立った。

青年の名は「百合澤正志 ゆりざわただし」、松江市宍道町来待大森、昭和24年1月24日生まれ、農林高校を卒業したばかりのことだ。

昭和42年といえば、39年に東京オリンピックが開催され、日本は高度成長期を迎えようという時代、ブラジル移住する人たちがいたことさえ、知らなかった。
まして、18歳の青年が「どうして」という思いがつのる。

きっかけは、農林高校に張ってあったチラシだそうだ。「ブラジルで農業をしませんか」という、募集チラシ。国の施策として、日系農園へ雇用青年を送り出すものであった。
海外へ行って働くという夢を抱いて、一歩踏み出した。
親戚も知人もなし、たった一人で18歳の青年が異国の地へ、船出をしていった。
その後、まもなく国の施策としての移民募集はなくなったそうだ。
百合澤さんは、ほとんど最後の移民団として、アルゼンチン丸に乗り込んだ一人だった。

島根県からは、百合澤さんを含め4人の青年が旅立ったそうだ。安来・出雲・大根島・そして宍道の百合澤さん、「40日の船旅のあいだが一番楽しかった。何もしないで、のんびり遊んでいればよかったからね。」
その後のアマゾンでの、過酷な労働を想像だにしない、幸せなときだったのかも知れない。

百合沢さんが経営するブラジルの胡椒園
百合澤さんが経営するブラジルの胡椒園

ブラジルのこしょう農園

南米ブラジル、大西洋沿岸アマゾン川下流の大都市「ベレン」へ到着し、日系農園パトロン宅へ入植する。受け入れ先の農園主のことをパトロンというらしい。3年間2箇所のパトロン宅で働いた百合沢さん、3年後21歳で自分の土地を買い農園主となった。

26歳帰国した際に、お見合いをし結婚、現在は宍道湖ほどの大農園を経営する農園主となった。

なんて、書いてしまえば簡単ですが、言葉に尽くせぬ苦労があったことは想像できる。
しかし、百合澤さんは、にこやかに多くは語らない。

伺ったこの日は、気温35度湿度も高く、ほんとに暑い日でした。もちろんエアコンの効いた部屋で、アイスコーヒーをいただきながらのお話だった。

毎日毎日、この天気です。エアコンも無いのですよ。
もともと、ブラジルの農園で働いていたのは、アフリカからの移民たち、その後アフリカから来なくなり、日本人をはじめアジア人がたくさんやってきたそうだ。

食習慣はその昔のアフリカの人たちのものだった。想像はつかないが、日本人にはなじめないものであったと思う。
また、野菜を食べる習慣が無かったという、野菜の代わりにフルーツ。
ブラジルに渡った日本人が、野菜を食べることを広めていったとのことだ。

一年中蒸し暑い気候、食習慣・文化の違い、また、熱帯特有の病もあったことだろう。
百合澤さんは、ほとんどの病を経験したという。
特に「アメーバー赤痢とマラリア」にかかったときは、もう死ぬのだと覚悟したと、にこにこはなす。

「日本の何が一番懐かしく思いました」と聞いた。
日本の四季とお正月などの年中行事だと言う。
私達は、あつい・さむい また めんどくさいと言っているが、これがあっての美しい国日本だ。

現在コショウ農園は、ブラジルの大学を卒業した長男が跡をついで経営している。
常時50人ほど、多いときは200人労働者を雇っている。
農園の中には、学校・協会などもあり、まるでひとつの町のようだ。

筆者には想像できないが、農園主はまるで、一国一城の主のようである。

結婚当初は、奥様と二人で農園を耕してきたそうだ。
よく奥様もついてきましたねと聞くと、「私に一目ぼれしましたから」と笑っていた。
奥様と二人、二人三脚、ある意味うらやましい暮らしだと思った。

ブラジルにある百合沢さんの自宅
ブラジルにある百合澤さんの自宅

そして、故郷での第二の人生

子供たちは、日本の教育を受けさせた。奥様の考えだったようだが、ブラジル日本人学校、ブラジルの大学と教育を受けた。
ご長男はブラジルに残り、あとは任せて日本に帰ることとなった。
アルゼンチン丸での船出から35年がたっていた。

35年のブラジル生活のなかで、事業が安定してからは、様々なボランテイア活動をしてきた。アマゾニア日伯援護協会では、日系人のための病院、更生施設建設に尽力して来た。
このことが、第二の人生に大きなきっかけを作ることとなった。

平成13年、日本に帰国した。
日本に帰ってのんびりしようと思っていたが、まだ50歳を過ぎたばかり、まして、毎日汗を流して働いた男には、隠居生活が出来るわけがない。

時は小泉政権時代、規制緩和がさけばれ、介護福祉事業への民間参入が認められた。
百合沢さんは自己のモットー「何事にもチャレンジ 人のために喜ばれる生き方」をめざし、認知症対応型グループホームの建設に挑んだ。

何事も、最初というのは大変だ。
まず、医者でもない、福祉関係の実績も無い、そんな百合澤さんにグループホーム開設の認可が下りるまでには、ずいぶんと苦労があった。
立ちはだかる行政の大きな壁、異業種からの参入の難しさ、これを乗り越えることに使命感すら感じ、意欲的にグループホームの必要性を説いてまわった。

地道な努力の結果、多くの理解者・協力者のわが広がっていった。
平成14年9月(有)アミーゴ島根を設立し、平成15年9月グループホームゆりさわを開設した。

民間グループホーム第一号だった。 (写真右:宍道町の株式会社アミーゴ島根本社兼グループホームゆりさわ)

建設にあたっては、様々な妨害や中傷もあった。
しかし一方では、百合澤さんががんばるならと、一千万円を寄付してくれたおばあさんもいたという。そんな暖かい思いに涙したと語る。
宍道町のグループホームゆりさわは、18室。
開設するやいなや、地元だけでなく多くの予約が殺到したという。
それだけ、待ち望まれた施設であった。

その後、三刀屋町にもグループホームを開設し、又一方NPO法人を立ち上げ、通所介護施設「だんだん」を運営している。

やりたいことは、全部自分でやる。
故郷の皆さんに喜んでもらえることをやりたい。
そんな思いを、ひとつひとつ形にしてきた。

宍道町の株式会社アミーゴ島根本社兼グループホームゆりさわ

シモンいも&シモン茶

(株)アミーゴ島根で製造販売しているシモンおろち茶

(株)アミーゴ島根で製造販売しているシモンおろち茶
シモン茶の詳細はアミーゴ島根のHPで

百合澤さんはがっちりした体格、そして何よりその手が物語る。
お百姓さんの手だ。大きく分厚く立派な手をしている。

最近、シモンという芋の生産を始めた。
ブラジルでは、漢方薬のように食べられている芋、シモン(カイアポ芋)というもの。
地中のミネラル分を吸収し生育するため、連作が出来ないという。
まるで、朝鮮人参のようである。

百合澤さんはこの芋の捨てられる、茎と葉に注目、乾燥させお茶にした。
成分分析を依頼して結果をみると、驚いたことに、朝鮮人参の3倍のミネラル分が検出された。
奥出雲で栽培している場所は、今まで何の作物もつくられたことの無いいわば処女地、地中にいっぱいのミネラル分を吸収して育っている。

昨年は6000本、今年は13000本植えた。
今、このお茶を健康維持のため、皆さんに飲んでもらいたい。
血糖値、高血圧、便秘などの症状改善に良いとの声が届いている。

飲んでみると、あまり癖の無いのみやすいお茶になっていた。
香ばしさは足りないが、この時期冷たく冷やして飲むと美味しい。

このシモン茶を皆さんに知ってもらって、飲んでみてほしい、きっと健康維持に役立つと力説した。これも、皆さんの役に立ちたいと願う気持ちがよくわかる。
今は、知り合いに飲んでもらって、口コミで広がってきていると話した。

強さとやさしさ

グループホームの庭は、ぶどう棚があった。巨峰とデラの実がなっていた。小さいがちゃんとなっている。
ぶどう棚のしたには、テーブルとベンチがしつらえてあった。

百合澤さんの手作りだ。
農園主は自分で何でもやらねばならない。農業のほかに大工仕事・車両の修理やメンテナンス。
体を動かしているのが楽しいという。

百合澤さんはいつもにこにこ穏やかだ。
話し方もおだやか、また、決して難しいことは言わない。
わかりやすく丁寧に話してくれる。

どんなことも、受け止めてしまうおおらかさとやさしさが感じられる。
ほんとに強い人は、きっと優しいのだろうと思った。

多弁ではない、どちらかといえばボツボツと語る言葉に、何でもやれないことは無いという、自信が見える。
「百合澤さんは強い人ですね」というと、「そうですね、私は強いですよ。」と明快に答えが返ってきた。

顔がちょっと怖いが、強くてやさしいおじさん、そんな百合澤さん、毎日、福祉施設に芋畑、また、これから新しい作物も検討中とのこと。
第二の人生もフル回転しているようだ。

平成19年8月27日取材