有福温泉 旅館ぬしや 女将・桧垣裕子さん(江津市有福温泉)【#連載84】
(取材・文章 tm-21.com)
【今回の元気人】
有福温泉 旅館ぬしや
女将・桧垣裕子さん(昭和21年生)
〒695-0156 島根県江津市有福温泉955
TEL 0855-56-2121
FAX 0855-56-2011
HP http://www.nushiya.jp/
有福温泉
かなり歴史のある温泉と聞いていた。
おかみさん 桧垣裕子さんは1冊の手書きの資料を見せてくれた。
タイトルは「有福温泉を知ってください」
亡くなられたご主人 桧垣和彦さんが作った資料だった。
有福温泉の観光事業としての側面・歴史的背景・周辺の名所旧跡を詳しく調査した手書きのものだ。
約1350年前、聖徳太子の時代(650年ごろ)、インド(当時は天竺といった)の霊鷲山(りょうじゅせん)500人の聖人の一人、法道仙人がこの温泉を発見したという言い伝えがある。
なぜ、インドの僧がこの地に来たの?素朴な疑問がわく。
この頃、インドではイスラム教が隆盛、仏教が衰退していた時代、当然仏教徒は迫害を受けていた。僧たちは、仏典を守ろうと、多くの仏典を持って逃げ出すことになる。
中国の三蔵法師が天竺を目指すのは、この時代のこと。
法道仙人は三蔵法師と共に、中国へ渡ったのではないか、そして日本からは遣唐使がやってきており、「日いづる国」へ遣唐使とともに日本にやってきた。
インドの僧は宗教者であり、また薬草などの知識があり医者でもあった。天皇に謁見し、天皇の病気を治癒し、歓迎されその後中国地方へやってきた。
おかみさんは、ご主人の説明の中でこの話が一番納得出来たと、話してくれた。
↑緑の木立に囲まれ落ち着いたたたずまいの ぬしや本館(右手)とお食事処やまてらし(左手)
日本での法道仙人の足跡は、兵庫県姫路市「一乗寺」を創建。そして、有福温泉発見とこの地の福泉寺に秘仏と共に書き残されている。
仙人は人跡まれな山里で、岩間から温泉が湧き出すのを発見し、自ら石を彫り薬師仏を安置しこの地を去った。霊泉のことは広く知られるようになり、村人達は小さなお堂を建てたのが、福泉寺の始まりという。
どうです?
聖徳太子・三蔵法師・法道仙人・遣唐使 なんだか歴史ロマンでしょう。
旅館ぬしや 女将 桧垣裕子さん(S21年)
ぬしや全体の景観が2005年しまね景観賞を受賞
「岩から湧き出す」ですから、ここの温泉はボウーリングはしておらず、現在も14の源泉がある。それぞれの場所で、温泉の質感が違うそうだ。温度は47度から37度くらい、単純アルカリ泉だがぬめり感が違うとおかみさんは言う。
「ぬしや」の創業はいつ頃ですか?
わからないという、それくらい古いのだそうだ。
記録に残る一番古いものは、江戸時代末期だそうだ。
江戸時代末期に活躍した「頼山陽(らいさんよう)」
朱子学・国学を学び「日本外史」を記した、広島出身の学者だそうだ。
頼山陽が母親にあて、「有福温泉のぬしやで2週間湯治をしています」と書き送った手紙が残っているそうだ。話の中に柿本人麻呂は出てくるし頼山陽だとか、とにかく古くて歴史が深いことは良くわかった。
「ぬしや」は、おかみさんのお母さんの実家だった。
おかみさん桧垣裕子さんは、医者の一家に生まれた長女、大学卒業後サラリーマンの和彦さんとS45年結婚した。裕子さんは、「ビールを冷やして飲むものとは知らなかった」というから、ほんとにお嬢様育ちだったのでしょうね。
当時は専業主婦、夫を送り出せばあとは自分の時間、優雅な暮らしでしたよと笑った。
そんな、サラリーマンと専業主婦が「ぬしや」を継いだのは、S60年11月のこと、当時経営不振にあえいでおり、銀行からは経営者をかえて、再建しなさいとの指導があった。白羽の矢がたったのが桧垣さんご夫妻だった。
ご主人は、サラリーマンといっても、創業者一族。会社を辞めて島根県の旅館の主、一大決心だっただろうと想像する。ご主人和彦さんは「自分にサラリーマンは向かない。会社には自分より優秀な、もっとふさわしい人がいるだろう」
何より、自分で何か商売をやりたいという思いのほうが強かったと裕子さんは話す。
さて、「ぬしや」を継いだ二人の素人さん、ご主人は、旅館はまかしといて、早速はっぴをきて、広島の八丁堀へ出かけていった。チラシを作り配っては見たものの、「ぬしやは何が売りなの?」との質問に「新鮮な地元の魚とおもてなしです」
「新鮮でない魚なんかありませんよ」といわれ、言葉が詰まってしまったという。
かたちの無いものを営業する、これまでの営業とはまったく違うことに、唖然としたという。「自分達は何を売るのか」そのことに突き当たった。
ここから、シロウトならではの試行錯誤が始まった。
名物料理と看板と神楽
江戸末期の古民家を移築したお食事処やまてらし
ぬしやの名物料理「瓦宝楽焼」、この完成までには、笑えるが笑えない話しがあった。
旅館は名物料理でしょうと、おかみさんはいろいろ考えた。
石州瓦を使って、地元の魚介類を焼いてみよう。
瓦を熱く焼いて、その上であわびを焼きましょう。ところが、熱くて重い、配膳に無理があった。失敗でした。
瓦の器に灰を入れて、炭をおこしてうずめてみた。
お客様の前であわびを乗せると、あわびは熱で踊ります。
しかし、いつまでたっても踊っているばかり、保温状態だけが続いていた。
お客は「あわびの踊りは堪能したから、調理場で焼いてきてよ」 失敗でした。
失敗は成功の元、瓦の火鉢を作ってみた。
炭をおこし網をのせて魚介を焼く、このかたちがようやく出来上がった。炭の大きさ、網の形、いろいろ考え試しての完成だった。
現在は、お魚のコースと和牛のコースを選べるようになっている。
魚もいろいろ試してみたそうだ。「のどぐろ」を焼いてみたところ、身がやわらかくて、くしに刺し、焼けてくると、ぽろっと身が落ちてしまった。
やはり「のどぐろ」は煮付けでしょう。
そこで、おなじむつの仲間「やなぎのまい」という魚をつかっているらしい。
きれいな名前ですよね。とっても美味しいそうですよ。えびに貝類、どれも浜田港で水揚げされたものにこだわっている。
9号線にぬしやの看板が2ヶ所たっている。
このキャッチコピーがふるっている。「おっと 行き過ぎの ぬしや」江津市の東端にたっている。
この看板を見た近くの温泉街から、ぬしやへ同業者の団体さんがやってきた。
この看板をたてたぬしやの真意を聞きたかったらしく、インパクトは大きかったようだ。
真意は簡単、浜田ICを出てすぐの看板を見落として、温泉津まで行かれたため、わかりやすく表現したものだった。
地域を巻き込んだ売りがほしいと考えた。
地元の神楽を温泉客に見てもらおうと提案した。地元の人たちは、ええーそんなものと、反応は芳しくなかった。
県外からの観光客は、勇壮でエネルギッシュな石見神楽に魅了された。
湯町演芸場で神楽を見てらうようになって、20年がたった。
おかみさんとご主人の、有福温泉を、ぬしやを元気にしたい。
サラリーマンと専業主婦、そんな二人の新しい発想と思いが、様々なエピソードとして伝わってきた。
古民家の宿
3000坪の緑豊かな木立の中に、古民家を移築した隠れ離れの宿が並ぶ。
ぬしやは、温泉街から急な坂道を少し上った林の中にある。道路の拡張で移転することになった。このときお二人は、古民家を移築しようと決めた。「もったいない」がコンセプトだった。
数件の民家は、周り20キロの範囲から集めた。これも、こだわりのひとつだった。
古民家は朽ち果てる寸前、もったいない。しかし、移築は大変な作業、車を使わない時代、進入路は狭く重機が入りづらく、あきらめた物件もあったようだ。
広葉樹の大木の中に、点在する宿。おかみさんは、建築中毎日通って「木をきらないで」といい続けた。大工さんにとっては、まったく邪魔な木ですからね。
部屋からみえる、大木の幹とこずえ、とっても癒されます。
古民家の宿の一室。各部屋からは四季折々の雑木林の景色を楽しめる、まさに癒しの空間。
広島や岡山・東京方面からの個人客のおおいぬしや、季節のうつろいが感じられるこの宿に、きっと魅了されることだろう。
有福の良さをしってもらう、地元の人・食材・伝統、を売りにする。
「自分達は何を売りにするのか」その答えは、ここにあった。
ご主人和彦さんは、古民家を移築しようやく完成という頃に他界された。
おかみさんは、娘さん夫婦とぬしやを切り盛りし、このたびリニューアルオープンとなった。
おかみさん、お会いしたとき、部屋のしつらえようのお花とはさみを持って、走り回っていた。Tシャツにジーンズ、勢いよくぽんぽん言葉が出てくる。
話は次々飛び出し、あっちへこっちへ、面白かったですよ。
おかみさんの、半生をまとめたら、有福細腕繁盛記が出来上がりそうですよ。
2008(平成20)年7月15日取材