かじ山荘デイサービスセンター(大田市) 施設長 中村学さん【#連載90】
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中村 学さん(昭和38年生)
会社名 有限会社ドリームシステム
居宅介護支援事業所
かじ山荘 デイサービスセンター 施設長
〒694-0052 島根県大田市久手町波根西1941番10
TEL 0854-84-7158
かじ山荘公式ホームページ
http://www.kajiyamasou.jp/
ブログ 「笑う門には いい介護」
http://warakado.wordpress.com/
facebook
http://www.facebook.com/manabu.nakamura.980
元・よしもとピン芸人 中村 学さん
1963年12月24日生まれの48歳、大田市出身。
とっても面白い人と聞いたので、早速職場のかじ山荘デイサービスセンターへ会いに出かけた。
ドアを開けると赤いTシャツ姿の職員さん達、いっせいに「いらっしゃいませ」。
大きな声で挨拶してくれた。 ここは居酒屋かあ?
迎えてくれた中村さん、にこやかな笑顔、少々メタボなおじさんなのだ。
子供のころからのひょうきん者、とにかく人を笑わせることが好きだった。
小学生、幼馴染の同級生 宮根誠司(フリーアナウンサー)さんとつるんで、面白いことを考え、遊んでいた。かつらをかぶって驚かす。口紅塗っての女装。二人で漫才。などなどあげればきりが無いという。おもろい悪がきだった。
高校卒業後東京へ、大学に入ったものの勉強はせずに役者志望、大学は中退した。
プロダクションに入り、TVや舞台にチョイ役で出たものの、売れなかった。
1994年、大坂のよしもと興業が大々的に東京進出してきた。
オーディションを受けて合格、よしもとのピン芸人となった。
同期には ペナルテイー ロンブー ココリコ など、みんなものすごい勢いで人気ものとなった。
芸名は? 本名のままですよ。・・・・・(オーラがないなあ)・・・・・。
2年間頑張った。 大田市の実家に帰る事になった。
まだまだ、芸人としてやりたいとの思いは消えてはいなかった。
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全員ホールに集合して全身体操、大きな笑い声が絶えない。
中村 大田市へかえる。
中村さんは、男三人兄弟の末っ子。
このころ、父親が事故で亡くなった。その後、母が脳梗塞で倒れた。
手足が不自由になり、介護が必要となった。
中村さんが一番自由な身、母の介護のため「かえる」覚悟をした。
実家へ帰ってからバイトもせず、母の介護に専念していた。
ストレスを抱えていた。
相談相手も無く、介護の知識も無く、追い詰めれれていた中村さん。
母に強い言葉をぶつけていた。
そこには、母のせいで芸人の道を捨てたとの思いもあったことだろう。
母のせいだ・・・・・・。親子関係は悪化し、いつしか二人から笑顔が消えていた。
ある日、母の通うデイサービスセンターを訪れた。
母が職員さんを相手に笑っていた。「お母さん、笑えるんだ」 衝撃だった。
介護の職場では、利用者を笑わせることが出来る、自分の20代の笑いを生業とした経験が生かせるのでは?
母との関係悪化は、その後も続いていた。
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地域NO1のデイサービスを目指して!!
中村36歳 プロの介護士になった。
かじ山荘に来ることになったきっかけは?
「快GOツアー」を企画したことだった。
身体に障害のある方たちを大田市へ案内するツアーを企画した。
幼馴染の宮根誠司さんに話を持ちかけた。
宮根さんプロデュース、カリスマ添乗員平田進也さんも加わり、広島から大田市を廻る計画となった。
そのとき、車椅子や車椅子が運べる自動車など、快く提供してくれたのが、かじ山荘を経営する(有)ドリームシステムの社長だった。
「快GOツアー」は大成功。 皆さんの笑顔がうれしかった。
(有)ドリームシステムとの縁はつながった。
社長から『かじやま荘を日本一のデイサービスにしてくれないか』 と話があった。
職員には、自身が介護をしていること、経歴など、中村さんのことを詳しく話してある。
それなら、うまくやっていけるだろうと引き受けた。
かじ山荘は、利用率が下降ぎみ、職員にも元気が無く、悪循環な状況にあった。
中村さんのかじ山荘での仕事が始まった。
ミィーティング、あいさつ等、課題は多く、職員さとのコミュニケーションも難しかった。
まずは、大きな声で挨拶から始まった。
試行錯誤、あがきながら今の体制を作り上げてきた。
どのような状況なのかは、ぜひ かじ山荘デイサービスセンターのホームページを見てください。びっくり仰天ですよ。
小学生のあの悪がきたちが大人になったようです、とっても面白い。
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中村さんの講演会の様子をYOUTUBEで配信(クリック)
中村 講演活動をはじめた。
母の介護を始めて6年、プロの介護士になって2年、8年の経験をつんだ。
近所の人達から、介護のことについて話してほしいと頼まれた。
最初の講演だった。
まだまだ、介護技術には自信が無かった。これまで8年間の母を介護した経験を基に話をした。 母と自分の関係の悪化についても話した。
中村さんの話に、皆さん共感してくれた。
ここから、講演活動がはじまった。
まだまだ、母との関係修復のアンサーは見つかってはいなかった。
その後、講演活動は仕事の合間に続けてきた。
介護者へのはなし、介護事業者で働く人達、さまざまな場で話をしてきた。
今は「笑う門には いい介護」 と題して話をしている。
さて、アンサーは見つかりましたか?
求めすぎない
介護者は、じぶんの言うことを聞かせようとしてしまう。自分を押し付け、言うことを聞かないと怒ってしまう。 求めすぎないことが大切だ。
介護ストレスをためない
といっても、介護者はストレスをためてしまう。今は、さまざまな介護サービスがある。
遠慮せず、利用して自分の介護ストレス解消を同時にやってほしい。
講演始めた事で、母との関係に変化があった。
自分と母の関係を、客観的に見るゆとりを持てるようになった。
ある日、母に伝えた。
「生んでくれて ありがとう」 母の手を握って、初めて言った。
母との関係は、少しずつ修復されていった。
中村 家庭では
バイト先で知り合った女性、中村のイベント事業アシスタントをしてもらっていた。
彼女は、カナダ留学を予定しており、それまでの腰掛バイトだった。
カナダ留学から1年後、大田市に帰ってきた。
その後、中村さんと11歳年下の彼女は結婚し、3人の子供をもうけ家庭を作った。
介護福祉士のほか、合格率0.9パーセントという難関 福祉住環境コーディネーターの資格も取った。
毎朝4時30分に起床、7時過ぎ職場に行くまで「講演ネタ」「かじ山荘の運営計画」など自分の仕事をする。
一番に職場に入り、最後に職場を出る。
常に頭の中は、仕事のことでいっぱい。まだまだ、甘えたい子供たちとの時間を作るため、早朝一人の時間を作っている。
中村 これからは?
大田に帰ってきて十年近くたったころ、家庭を持ち、介護という仕事につき、仕事も楽しい、母の介護、講演活動も両立し、自分の生活にすばらしい充実感を感じた。39歳のこと。
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20代、芸人として経験をつみ
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30代、母の介護に悩み、介護を職業にした。試行錯誤だった。
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40代、充実感をえて、施設運営と講演活動に励む。
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50代、かじ山荘デイサービスセンターを、日本一笑顔があふれた施設にしていきたい。
職員も利用者にも、充実感を感じて、笑顔になってほしい。
一度、ホームページを見てください。わかりますよ。
今回掲載の元気企業データ
法人名 | 有限会社ドリームシステム かじ山荘 デイサービスセンター |
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所在地 | 〒694-0052 島根県大田市久手町波根西1941番10 |
業務 | 居宅介護支援事業所 |
連絡 | TEL 0854-84-7158 FAX 0854-84-7126 |
ホームページ | かじ山荘デイサービスセンター公式サイト |
2012年10月26日取材・記事 ティーエム21