日韓丸木舟航海プロジェクト・からむし会 代表 森 泰さん(松江市)【#連載97】
森 泰さん
会社名 松江市城西公民館 館長
日韓 古代の道をたどる会(からむし会) 会長
〒690-0851 松江市堂形町614
TEL 0852-26-2659
FAX 0852-21-5265
ホームページ
松江市城西公民館HP
http://www.mable.ne.jp/~jyosaik/
日韓 古代の道をたどる会(からむし会)HP
http://karamushi.sanin-navi.jp/
渡来人がどのようなルートで、どんな方法でわたってきたのか、実証しようというプロジェクト「日韓 古代の道をたどる会(からむし会)」のお話を、松江市城西公民館長 森 泰さんに聞いた。
丸木舟「からむし号」再び
約30年前、松江市の教師たちが、隠岐の島から境港七類港まで丸木舟で海をこぎ渡った。島根県の古代遺跡からは、隠岐の島産の黒曜石が石器として、たくさん出土している。しかも、島根県東部海岸沿いで多く、山間部や西部になるほど少ないという。では、どうやって古代に隠岐の島から運んできたのか、素朴な疑問から始まった。
丸木舟作りは、原木探しから始まった。車を走らせ材木置き場を見て歩き、長さ8.2メートル直径90センチのアラスカ産モミの木を見つけた。津田小学校の一隅に運び、手作業での船作り、オノ・ノミ・チェーンソーなどを使って2ヶ月の作業だった。
古代人はどうやって作ったのか、もちろん鉄の道具はない。石オノで木を切り倒し、木の上で火もやして、こげたところを石オノで削っていく。気の遠くなる作業だ。
石オノで大きな木が切り倒せるか疑問だが、先生たちはこれも実験したそうだ。直径10センチの木を石オノを使って切り倒した。出来るのである。
隠岐の島から七類港まで、漕ぎ渡った。クルーは5人。途中交代しながらの完走だった。以外にも、丸木舟は、水の抵抗を受けにくく櫂でこぐ力がそのまま舟の推進力となりスピードがでる、傾いても元に戻る力が強く安定し、性能はすばらしいと実証できた。
それから30年、今度は古代日韓交流の日本海航路を証明するため、再び丸木舟による航海を計画した。2009年に再結成された「からむし会」当時のメンバー3名に新メンバーも加わり、日本海に面した浦項(ポハン)市から島根半島まで340キロを航海するという。
【左】絵本『海を渡った神様』 監修/錦織 明
島根県国際理解教育研究会 日韓合同授業研究部
【右】縄文の丸木船 日本海を渡る(からむし会編)
ヨノランとセオニョ
1冊の絵本「海を渡った神様」を読んだ。1860年くらい前の韓国の古い書物「三国遺事」に書かれているお話を、永年日韓交流の研究をしてきた教師、錦織 明さん(からむし会のメンバー)が、平成15年に教材として電子ブックとして制作したものを、さらに絵本として発刊した。
新羅の海辺に、ヨノランとセオニョという仲の良い夫婦が暮らしていました。日の出前から海草をとっていたヨノラン、見上げると東の海から真っ赤な太陽が昇ってきた。美しさのあまり靴を脱ぎ、近くの岩の上へのぼりました。すると、岩が静かに海の上に浮かび、太陽にむかって東へ東へと進み始めました。
ヨノランがたどり着いたのは、日いづる国出雲の浜辺でした。
土地の人達にあたたかく迎えられ、岩に乗り海を渡ってきた神様として尊敬を集めました。
新羅に残されたセオニョは、泣いて暮らしていました。ある夜、懐かしいヨノランの声に導かれ、海へとかけ出しました。そこにはヨノランノ靴がのこされていた。大きな岩にのぼったセオニョの涙を、東から上った太陽が輝かせたとき、岩は静かに動き出しました。「日いづる国にヨノランがいる」
こうして二人は再会し、出雲の国で王と王妃となり、ヨノランは人々に稲作や鉄づくりを、セオニョは織物をおしえて出雲の国を豊かにしたのだった。
ヨノランとセオニョは新羅の国の太陽と月の神様だった。二人がいなくなった新羅の国は光が空から消えてしまい、衰えていくのを心配した新羅の王は、出雲の国へ使いを送り、二人に戻ってくるようにと伝えた。
しかし、二人はまだ出雲の国でやるべきことがあると、セオニョの織った特別な絹織物を持たせた。新羅に帰った使者は、大切に持ち帰った絹織物を王にささげると、絹織物は輝き、するすると広がって、空には月と太陽が戻ってきたのです。
こんなお話です。ちょっと日本神話の天の岩戸伝説と共通していると思いませんか。
韓国慶尚北道に迎日湾というところがある。その奥に浦項(ポハン)市があり、ヨノランとセオニョは、この町から日本へわたったと言われている。ポハンには今でも「日月祠堂」があり、ポハン市の人々は毎年ヨノランとセオニョのお祭りをしている。
迎日湾の東の端、虎尾岬にはヨノランとセオニョの銅像がたっている。
この物語では、ヨノランとセオニョは迎日湾から東に300キロ、島根半島の西端、日御碕あたりについたとして書かれている。
2010年7月30日(土)、31日(日)開催の
韓国浦項市との交流イベント&からむしⅣ世号進水式案内ポスター
ポハン市との交流
ポハン市は人口50万人を超える、慶尚北道最大の都市、ポハン製鉄所・IT産業など工業都市である。また、サッカーが盛んで有名チームがあるという。ちなみに、ポハン市のシンボルマークは、ヨノランとセオニョなのだ。
錦織氏の発刊した絵本「海を渡った神様」のことが、ポハン市に伝わり、2009年12月、からむし会のメンバーは、ポハン市を訪れた。ポハン市の行政や慶北日報という新聞社などとの交流会の席で、古代の朝鮮半島と日本の海の道をたどるという企画を話したところ、ポハン市は積極的に参加することとなった。
行政にも新聞社にも、この企画の担当者が配置され、錦織氏は急遽丸木舟の企画を講演したのだった。
そして、ポハン市と民間団体からむし会との交流が始まっていった。
今年7月31日と8月1日、城西ふれあいホール(旧山陰合同銀行末次支店あと)では、からむし会とポハン市の写真展が開催される。もちろん、ポハン市からも担当者が来日し、盛大に交流会が開催される。
秋鹿なぎさ公園では、このたび新創した「からむしⅣ号」の進水式も行われる予定だ。
からむしⅣ号
「からむし」という言葉、何かわかりますか。「からむし」とは、古代の人々が木の繊維で作った糸のこと、この糸で衣服やロープ、漁業の網などを作ったという。
30年ぶりに丸木舟を作ることになった。ネットの時代、全国をいろいろ探したが、遠くでは運搬に費用がかかりすぎ、近くの山林を見て歩いた。東出雲の山林で大きなモミの木を見つけたのは、2010年2月のことだった。
2月24日小春日和のこの日、切り出しが始まった。
周囲が3.5メートルという巨大なモミの木、かんべの里へと搬入された。手作業での丸木舟作り、おおくのボランテイアさんがかかわっている。元大工さん・元船乗りさん多くの人材が集まってきた。
毎週末約30人のメンバーが、手作業で丸木舟つくり、夢とロマンをかけた作業が続き、いよいよ進水式までこぎつけた。
■韓国 慶北日報の記事で紹介されています。
慶北日報の記事はこちら
古代の海の道
渡来人はどのようなルートをたどったのだろうか。
おそらく、朝鮮半島から北九州に渡るルートが、距離的にも近く、島を渡っていくことが出来るので、主流であったとかんがえられる。
そのほかにも、いろいろなルートが考えられるが、そのひとつに新羅から出雲へ渡るルートがある。朝鮮半島の迎日湾から出雲の日御碕まで、直線ルートで300キロ、対馬海流や偏西風などの条件を考慮すると、比較的容易に渡れるコースとかんがえられる。朝鮮半島の難破船が、出雲の海岸に流れ着くことがよくあるそうだ。
このコースについては、神話や神社、地名などからも推測できる。紹介したヨノランとセオニョの話は韓国の古書「三国遺事」に書かれており、「日本書紀」には、高天原を追放されたスサノオノミコトは新羅のソシモリに天下りますが、ここは自分の住むところではないと、土の舟をつくり出雲の国に渡ったとある。
スサノオは息子のイソタケルノミコトとともに、日本に渡った。簸の川上流に降り立ち、ヤマタノオロチを退治し出雲の国づくりに励みます。
スサノオゆかりの神社は各地に残っている。
韓亀神社(出雲市唐川町) 韓神新羅神社(大田市五十猛町) 韓国神社(出雲市日御碕神社境内) 韓国伊太氏神社(東出雲揖屋神社境内)
朝鮮半島とのつながりがわかる。
からむしⅣ号がどのルートを行くのかは、まだ決定していない。しかし、直線ルートをたどってほしいというのも、ロマンですね。
これから、課題はたくさんある。まずは舟の性能テスト、島根半島の日本海を美保関まで漕いでみようという計画。こぎ手やサポート隊、大きな問題は必要経費。
たくさんの課題を乗り越え、日韓の交流をさらに深めたいと、森館長は熱く語ってくれた。
からむしⅣ世号(宍道湖での試験航行)
今回掲載の元気人データ
団体名 | 松江市城西公民館 「日韓 古代の道をたどる会」(からむし会) |
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所在地 | 〒690-0851 島根県松江市堂形町614 |
氏名 | 森 泰 |
役職 | 松江市城西公民館 館長 「日韓 古代の道をたどる会」 (からむし会)会長 |
連絡 | TEL 0852-26-2659 FAX 0852-21-5265 |
ホームページ | 松江市城西公民館HP http://www.mable.ne.jp/~jyosaik/ 日韓 古代の道をたどる会(からむし会)HP http://karamushi.sanin-navi.jp/ |
2010年7月20日取材